下地一明のバスケ経歴とプロフィール!大動脈瘤の病気になった原因は?

下地一明 バスケ コーチ アンビリーバボー 経歴 画像

9月15日のアンビリーバボーで下地一明さんという方が取り上げられています。

日本代表候補にも選ばれた彼は病気によってその選手生命を失ってしまいます。
今日はそんな下地一明さんについての経歴や大動脈瘤の病気について調べていきたいと思います。

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下地一明さんの経歴やプロフィールまとめ

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引用:http://broncos.sailog.jp/topics/2015/05/post-b9c0.html

  • 名前 下地一明(しもじ かずあき)
  • 生年月日 1976年12月4日 39歳
  • 出身地 沖縄県
  • 出身大学 中央高校
  • 職業 元バスケットボール選手・コーチ

経歴を紹介

小学校3年生まで静岡に住んでいた下地一明さん当時はサッカーをしていたそうですよ。
その後沖縄に引っ越しその後もサッカーを続けていたそうです。

そして中学校に上がってから始めたのはなんと軟式テニス・・・なかなかバスケは始めませんね(笑)
そしてようやく中学2年生になってからバスケを始めます。

下地さんは特にバスケに興味はなかったようですが周囲の人たちに進められてとのことでした。
その理由は下地さんは中学1年生の時点でなんと身長が177センチもあったそうです。

中学校に入っていきなり身長がすごい伸びる人っていますよね(笑)
そしてそこから下地さんはみるみるバスケを上達していきます。

中学3年生の時には身長なんと191センチにもなったそうです。

そして高校は沖縄の強豪校である北谷高校に進学します。
中学校にから初めて強豪校に入れるなんて身長だけでなくやっぱりバスケの才能もあったみたいですね。

そこで沖縄バスケ界伝説の指導者と言われている安里幸男さんの指導を受けます

高校でも実力を発揮していき高校2年生の時には全日本ジュニア代表にも選ばれ、いっきにその名を広めました。

しかしその頃から実力はあるものの自分勝手なプレーが増えてしまったと言います。
バスケや他の団体競技はやはり一人の力で勝つのは難しいですよね、それは実力の高いチームになればなるほどそうだと思います。

インターハイ出場をかけた県大会では惜しくも決勝で敗れてしまい、インターハイに出場することができませんでした。
しかし当時の沖縄って県大会決勝=実質のインターハイ決勝と言われるくらいレベルが高かったそうです。

当時は沖縄県大会の決勝戦がインターハイの決勝戦と言われるほど沖縄には強豪校がいたようです。

その後大学は中央大学に進学し、大学でも全日本代表候補に選ばれました。
しあし大学でも自分勝手なプレーは変わらず、安里先生からは再三「天狗になるな」と言われていたそうです。

そんな下地さんをある日突然病気が襲い掛かります。

それは試合中の出来事でした、いきなり胸の痛みに襲われた下地さんはベンチに下がったと言います。
その前に激しい接触プレーがあったことからそのせいだと思っていたそうですが。

その痛みは治ることなくどんどん増していったそうです。
そして下地さんは救急車で搬送されました。

病院に搬送され診断を受けた結果は「解離性大動脈瘤」という病気でした。

解離性大動脈瘤とは?病気のになった原因は?

大動脈は、外膜、中膜、内膜の3層構造となっており、十分な強さと弾力を持っていますが、なんらかの原因で内側にある内膜に裂け目ができ、その外側の中膜の中に血液が入り込んで長軸方向に大動脈が裂けることを大動脈解離といいます。
原因は不明ですが、動脈硬化や高血圧が関係しているともいわれています。マルファン症候群などの大動脈の中膜が弱い先天性(生まれつき)の病気との関係も知られています。
中膜に流れ込んだ血液は、新たな血液の流れ道(解離腔または偽腔)をつくり、それによって血管が膨らんだ状態を解離性大動脈瘤(大動脈解離)といいます。外側には外膜一枚しかないため、破裂の危険性を伴います。
引用:http://www.jsvs.org/common/kairi/index.html

解離性大動脈瘤と診断された下地さんはすぐに手術をし無事に成功しかし医師からは激しい運動は禁止との宣告、これにより下地さんの選手生命は奪われてしまします。
しかしこの手術の成功率はなんと2%ともいわれています。まさに奇跡の生還ですね!

そして下地さんが突然解離性大動脈瘤になってしまったのは理由があるようです。
それはマルファン症候群という病気でした。
下地さんはこの病気にかかっていたのです。

マルファン症候群とは?

マルファン症候群は、身体の結合組織に影響する遺伝子疾患のことで,骨格、肺、目、心臓や大動脈といった多くの器官に症状が現れます。(症状の度合いはそれぞれの患者によって異なります。)
マルファン症候群患者の約75%が親からの遺伝によって生まれ、約25%は突然変異によって新たに生まれています。特に注意すべき点はマルファン症候群患者の大動脈は 正常より太くもろいことがあり、血管にかかる圧力により、大動脈の拡大(瘤)、解離、破裂や、大動脈弁および僧坊弁の
閉鎖不全などが引き起こされてしまう危険があることです。
しかしながら、早期に診断を行い、薬物治療と運動制限を組み合わせ、定期検診をし症状によっては外科的手術を施すことにより、平均に近い寿命を全うすることができます。(突然変異によって「新たに」生まれた人たちは、まわりに前例がいないのでMFと気づかずに、診断が遅れ、危険性が高くなる可能性があります。)
発生頻度は人口の約 3000~5000人程度と言われています。
実に2万5千人~4万1千の日本人がマルファン症候群である計算になります。
引用:http://www.marfan.gr.jp/marfan-info/public/ac/what’smarfan.html

これが原因で解離性大動脈瘤になってしまったようですね。
親がマルフォン症候群でないと発見が遅れて気づかないこともあり危険な病気のようです。

沖縄バスケ界伝説の指導者と言われている安里幸男さんとは

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沖縄バスケット界のカリスマ指導者といわれている安里幸男先生。

全くの無名高校をインターハイで3位にするなど伝説を残しています。
赴任した高校では2年以内には県内トップチームになるという伝説の先生です。

そして最大の目的は人間的に成長させることだと言います。
将来の事を見据えて指導するのが指導者の仕事だろ言います。

そんな選手の将来の事まで考えるコーチだからこそ選手からの信頼も厚く、強いチームを作る秘訣なのだと思います。

下地一明さんのその後

選手生命はを奪われた下地さんはその後コーチとしてチームメイトの指導に回ったそうです。

そしてOSGフェニックスに一般社員として就職しました。
しかしある時バスケをしてみると、あれ普通にできるということに気が付きます。

そして医師からも運動の許可が下りたのです。

OSGフェニックスのバスケチームに復帰しました。

しかしまたもや病気が再発。手術は無事に成功したもののこのときに選手の引退を決意します。

その後はコーチとして日本代表のアシスタントコーチや新潟アルビレックスBBのアシスタントコーチを務めていきます。

しかし3度目の再発

3度目の手術は約15時間にも及ぶ手術になり、下地さんは1か月間も目を覚まさなかったと言います。
しかし今回は意識が戻ってからが本当の戦いでした。

意識は取り戻した下地さんでしたが歩くことも立つこともできないほど体が弱ってしまったのです。
しかしそこから必死のリハビリをこなしまたコーチとして復活!

その後2014年にはコーチを退任しているようです。

何度も病気に苦しめられてはまた立ち上がりと下地さんの生命力のすごさとバスケへの執着心がうかがえます。
最初はバスケには全く興味がなかった下地さんですが、今となってみればバスケがなければここまで頑張ることはできなかったのではないでしょうか?

まとめ

どうだったでしょうか?
下地さんについて調べてみました。

何度も降りかかる病気と闘いながらもずっとバスケにかかわっていく姿勢はすごいですよね。
何度も何度も立ち上がって生きていく姿勢には勇気が与えられます。

今現在については詳しくはわからなかったのですが放送で明らかになるかもしれません!
何はわかったらまた追記しておきます。

最後まで読んでいただきありがとうござします。

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