聖徳太子ってそもそも誰?実はいなかったのかも 後編

前回の続きの記事です。
聖徳太子ってそもそも誰?実はいなかったのかも 前編

どうして聖徳太子という『日本書紀』にしか記述のない人が、当たり前のようにお札や教科書に採用されたのでしょうか。その理由はわかってしまえばごく単純です。
今の第125代天皇陛下が天智派だからです。もう少し正確に言いましょう。平安遷都をした桓武天皇の時代からずっと、天智派が続いているからです。

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天智派と天武派による内乱

聖徳太子亡き後、日本国の覇権を懸けて戦った兄弟がいました。それが天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)です。ややこしいので天智派と天武派に統一します。

その当時、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の3つの勢力に分かれて戦乱が続いていました。

天武天皇は蘇我氏の政治力を背景に、親・新羅(+唐)政策をとりました。渡来人の秦氏も(おおむね)そちら側です。

それでは困ると思っていた人がいます。日本に留学(という名の人質として暮ら)していた百済の王子・豊璋(後の中臣鎌足)です。豊璋=鎌足説には異論もありますが、百済と強い繋がりのある人であったことは確かなようです。以降鎌足で統一します。

鎌足は天智天皇に近づき、天智派を親・百済にすることに成功しました。そして蘇我入鹿を暗殺して天智派は一旦は政権をとります。

その後、日本を真っ二つに割った大戦争が勃発します。壬申の乱です。天智派に反旗を翻した天武派との戦争です。

壬申の乱で勝利を収めた天武派は政権を奪い返しました。しかしその後しばらくの間、天智派と天武派で覇権争いは続きます。
そしてすったもんだの果てに、天武派は孝謙天皇を最後に血統が途絶えてしまいました。
その結果、桓武天皇以降はずっと天智派が日本を仕切ることになりました。それが現代でも続いています。これはこれですごいことですけどね。

古事記と日本書紀の違い

ここで、少しおさらいをしておきます。

・天武派
親・新羅。
蘇我氏の勢力。
『古事記』を編纂し壬申の乱を礼賛している。稗田阿礼の記憶を太安万侶が文書化したとされる。

・天智派
親・百済。
百済系移民の勢力。その中心が鎌足(藤原氏の開祖)。
『日本書紀』を編纂し新羅を罵倒している。鎌足の次男・藤原不比等が指揮した。

このように、きれいに分かれます。対立構造が見て取れるようです。

カンの良い方はもう気づいているかもしれません。

聖徳太子は天智派の作った『日本書紀』にしかでてきません。あれだけの偉業を成し遂げた聖徳太子を、『古事記』が無視しているのはとても不自然です。
そもそも古事記の記述は、最終巻の途中から具体的なエピソードがなくなり、天皇家の系譜を伝えるだけのものになっています。そして推古天皇で唐突に終わっています。まるで、後から誰かが手を加え削除したように。

批判を承知で言ってしまえば、『古事記』は敗者の歴史書で『日本書紀』は勝者の歴史書です。そして勝者の歴史は、現代の天皇陛下まで続いているのです。
それが、聖徳太子が実在の人物であり偉大な業績を残した人、という常識の生まれた理由です。『日本書紀』だけを日本正史とした理由も同じです。
まあ、以前に記録ってそういうもんなんですけどね。

多くの波紋を呼んだ説

聖徳太子の名を教科書から削るという話がでたとき、けしからんと、のたまった人が大勢いました。それほどまでに日本人に愛された聖徳太子なのだなと、見ることもできます。

様々な事情があるにせよ、1999年の大山誠一による聖徳太子虚構説は多くの波紋を呼びました。しかし、有力な王族である厩戸王は実在したというのも同時に主張されているのはあまり知られていません。彼は聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は藤原不比等が日本書紀を記す際に天智派に都合がよいように創作した架空の人物であるという主張です。
とはいえ、この説も当時の有力豪族である蘇我氏の邸宅に住む有力皇子である王族厩戸王(聖徳太子の本名)の存在は認めており、いなかったと結論付けるとは出来ないというあいまいなものでした。
そのため、それまで天皇に準じて諡号で呼ばれていた聖徳太子の呼称を、本名である厩戸王にしようという動きが出た時は大きな反対意見が出ました。
最も、日本書紀には厩戸皇子と記載されているのですけれどね。
整理すると、厩戸王は実在したけど本当にこの方が数々の改革を行った聖徳太子であったのかというと、それには疑問の余地があるというものです。

現在知られている肖像画も別人という説

聖徳太子の有名な肖像画は、聖徳太子ではないという説もでています。服装や手の持ち物などが、太子の時代のものではないということのようです。

源頼朝像や足利尊氏の肖像画も、間違いの可能性が指摘されています。
さらに言えば幕末の英雄・西郷隆盛。ほんの150年前に過ぎない人物ですが、上野の西郷隆盛像は実は弟の従道がモデルです。本人は名前さえ西郷隆盛ではないというグリコのおまけ付きです(隆盛は父親の名前。本名は隆永)。

最後に
前編の最初に書きましたが、この記事は「聖徳太子は実在の人物なのか」という問いに対し、答えを出すことを目的としていません。そのような説が提案されたという事実と、そのざっくりな理由を紹介しただけです。

『日本書紀』を鵜呑みにしてきたとはいえ、それが間違っていたという証拠はありません。『日本書紀』だけが正しいことを伝えていて、『古事記』はその事実を誤魔化そうとしているのかもしれません。その判断は他の人にまかせます。

しかしよく考えてみる必要はあると思うのです。ここまで書いてきたように、私たちは権力者(この場合は天智派)にとって都合のいい歴史を教えられてきました。そして正しいかどうかという知性のフィルターを通すことなく、それを鵜呑みにしてきたのです。

歴史愛好家にとって、根拠の明確な新説がでてくることは、こうして首を突っ込まずにはいられないほどの心躍る大事件です。教科書の無味乾燥な事実や年号の羅列では得られない「物語」を感じることでできるからです。

世界一長い歴史を持つ国となった日本には、まだまだこのような面白みがたくさん残っています。それを目一杯楽しむことが、歴史上の偉人たちへの最大の賛辞ではないかと思うのです。

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1 個のコメント

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    世界遺産・古都奈良の興福寺・北円堂を知らずして日本の歴史は語れない。
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