聖徳太子ってそもそも誰?実はいなかったのかも 前編

最初に書いておきますが、聖徳太子はいなかったというのは、新たに提案されたひとつの説に過ぎません。逆に言いますと、聖徳太子がいたという旧来の常識もまた、ひとつの説に過ぎないのです。
それがどうして、片方の説だけが広く長く信じられ続けてきたのか、その辺を「ざっくり」と書いて行こうと思います。

どちらが正しいのかに関しては、まだ決着はついていません。しかし歴史愛好家にとって、このような旧説を覆す説がでてくるというのは、とても心躍ることなのです。
新説と旧説の狭間をたゆたう喜びを、一緒に味わっていただけたらうれしい限りです。

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意外にみんな知らない?聖徳太子とは

10人の話を同時に聞き分けそれぞれに適切な返事をし、馬に乗って富士山頂まで飛んで3日で帰ってくるという、摩訶不思議伝説に縁取られた人物です。
日本人でこの名前を聞いたことがない人はまずいないでしょう。日本のお札に登場すること7回は、現段階では最多です。

日本の第31代天皇・用明天皇の第2子として生まれました。厩戸皇子(うまやどのおうじ)が実名です。
聖徳太子という名は、諡(おくりな)と言って、太子の没後に送られた尊称(奈良時代という説が濃厚)です。ややこしくなるので、ここでは聖徳太子に統一します。

聖徳太子は推古天皇(日本初の女帝)の御代に摂政となり、中国(隋)のすぐれた統治を見習って様々な改革をしました。
身分ではなく能力で出世できる制度・冠位十二階の制定。日本で最初の正文法・憲法十七条を制定。仏教の導入。三経義疏(初心者向けお経の解説書)の作成。そして当時の超大国・隋との外交(遣隋使の派遣)などです。

馬で空を飛ばなくても、これだけで十分スーパーマンですね。

聖徳太子に関する日本書紀の記述

これらの改革を実行した聖徳太子ですが、その死後に問題が起きます。実権を握って専横を繰り返し、王家を乗っ取った極悪人が登場するのです。それが蘇我氏です。
そして王家の危機を憂えた勢力(天智天皇と中臣鎌足)が、蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)して王家を中興しました(大化の改新)。

と書いてあります。これが学校で習った歴史であり、朝廷の正式見解です。多くの人がそれを認めたので、教科書にも掲載されました。そして一般常識となったわけです。

ここにちょっと不思議なことが1点あります。どういうわけか、『日本書紀』とそれ以外の歴史書と食い違いがでた場合は、『日本書紀』の記述を正しいとするという不文律が存在するのです。

歴史書と呼ばれるものは非常にたくさんあります。
『日本書紀』の前にも『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』『帝紀』『旧辞』『上宮記』『粟鹿大神元記』『古事記』などなどなど。これらすべてのものより『日本書紀』を優先しろというわけです。

聖徳太子がいなかった可能性が生じる原因

実は聖徳太子問題の根本は、『日本書紀』だけを正史としたところにあります。その記述だけを鵜呑みにすれば、聖徳太子は実在します。しかしそこにちょっとだけ疑問を挟むと、全く違った日本史が見えてくるわけです。

続きます。

北風荘右衛

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